Egg freezing?

元OL、独身アラサー、社会人類学専攻大院生が卵子凍結保存を本気で考えるブログ

入社した時は同じ感じだったのに、の罠

前回は、”バリキャリ勘違い説”を書いた。

 今回は逆に、”バリキャリ受入れ説”を考えてみる。

 

女子大生のキャリア形成についての研究を見てみると、多くの女性は若い時に子供は30代後半や40代で産もう!とは、そもそも考えていない。1980年代も2000年代もアメリカもイギリスも大差ない。法学部や医学部などの学部も特に関係ない。社会に出る前の夢と希望に溢れた女子大生は、時代や国が違っても、みんな、いい感じで仕事して、”いいタイミング”で結婚して産みたいらしい。なんという普遍性!!!!

 

この時点でのキャリア形成はさほど違わないのに、社会に出てからの感覚値が違うのは気のせいだろうか?総合職女性が入社以降誇りをもって働いていたのに5年目くらいで俄かに、結局一般職の方が勝ち組だよね、という気持ちにかられたり、私達はそんなに仕事をしたいのか?という自問自答を繰り返しているのは何故なのか。

 

例えば総合職女性と一般職女性を例にとってみる。

特に入社時点で一般職の女性が能力的に劣っているとも言えないし、総合職女性がみなキャリアを目指している、とも言えないであろう。はたからみたらラッキーで総合職として採用された人も、総合職でもよかったけど一般職にした高学歴女子もいる。いずれにせよ就職活動においてのテンションや、親からの要望、周りにいる友人の影響等で入り口が”違っただけ”であり、両者とも”良いタイミング”までの時間の潰し方が少し違う、といえる。

 

しかし以前少し触れたが、自我形成について考えて見る。

少なくとも人類学においては自我は他人があって初めて成立するものであり、社会的に構築されるものであると考えられている。つまり、親といる時の自分、高校の友人といる時の自分、彼氏といる時の自分、などの組み合わせでしかないのである。特に他人との関係性によって動く自我の流動性の高さは日本語の構造からも見て取れ、敬語、謙譲語等々の複雑な言語パターンを使いこなしているのは相手との関係性を瞬時に判断し自我のポジションを捉えている、と言われたりもする。

 

自我についてこう考えるのであれば、入社時から5年も経てば総合職と一般職の女性の自我に差が出てくるのは至極当然のことである。総合職女性は総合職女性としての自我が形成され、一般職は一般職としての自我が形成され、その影響は服装のような些細なことから、恋愛観やキャリア形成まで及ぶ。だからまず、違うということの認識が必要になる。

 

これに加えて、もう一つの考えかたを加えたい。ピエール・ブルデューのハビトゥス(=習慣・習癖)である。彼の考えの基本は、人間の行動はその人の資本(文化的・経済的・社会的資本)が元であり、学校、職場、友人、というそれぞれのフィールドの力関係によって決まっている。そしてそのフィールド内でのルールも力関係によって変わっていくものであり、何が真実か、というのはそれらの関係性に委ねられている。 だから人間がどう行動するかを知るためには、どんな種類の力関係がどのように動いているのか、を把握する必要がある、ということである。

 

どんな育ちで、どんな人に囲まれてきたか、どうやって育ってきたか、によって人間の習慣が決まり、例えば就職すると同時に一つ”職場”というフィールドが増え、それが大きくなっていくにつれて人の習慣も変化してくる。

よくよく聞くとめっちゃ普通のことを言っている。ピエール。。

 

と思うが、ここで何故私がピエール!!と思ったかというと、”資本”という考え方である。大学まで同様、どんな家で育ち、どんな学校に行き、という資本によって人間の考えや行動が変化するのは社会に出てからも続き、それも資本に組み込まれる。

 

社会に出ると、社畜という言葉でネガティブに捉えていないだろうか?小さい時から能力や努力を知的資本として大事にしてきたのに、それが仕事を通して金銭的資本という目に見えるものに変わった瞬間、知的資本の存在価値が薄れてないだろうか。

 

ピエールさん的思考を総合職女性が俄かにモヤモヤし始める仕事と結婚アラサー問題に当てはめてみると、”アラサー”というフィールドがいきなり登場してきて、今までのフィールド内ルールをぶち壊してますね、みたいな説明になる。

 

でも少し冷静になるとそもそもアラサー、というのはフィールドではない。フィールドとしてアラサー・友人・学校・職場って並ばない。自身のルールを変える力があるものではない。

私そんなに仕事したくて会社入ったわけじゃないし?というのは、総合職女性として今まで積み上げてきた資本はカウントしませんってことになる。その積み上げた資本よりも、お料理教室で料理を習うことが今必須の資本なのか?

 

自分の自我なんてものはなく、環境に大いに左右されていることを念頭に、自分の資本と、フィールドを見直す。自身のなかでのルールを見直す。

これを受け入れると、少し違って世界が見えてくる気がしているし、そうしないとピエールが言うように何が正しいかは見えてこないのだと思う。バリキャリとして仕事を続けるかどうかは、本当に仕事を好きかどうかだ!とかゆう判断しがたいもので悩むのではなく、なりたい自分にとってその資本が必要かどうか、のほうが考えやすいのではないかなあ、と個人的には思う。

 

なんかここまで書いて、何気なくゲスの極み乙女聞いたら、「私以外わたしじゃないの」を小難しく書いたみたいな気持ちになってちょっと萎えた。笑

 

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Bourdieu, Pierre, Outline of a Theory of Practice, Cambridge University Press, 1977.